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太平洋戦争の被害:富山大空襲(富山県)
富山県下で初めて空襲がおこなわれたのは、昭和20(1945)年5月24日。25日にかけて6回にわたり攻撃され、B-29計70機が海上に300個、陸上に100個もの爆弾を投下しました。
同年8月1日の夕方、米軍第73航空団らのB-29爆撃機174機がサイパン島を出発。日付が変わった深夜から、富山市への爆撃を開始します。爆撃は約2時間に及び、その間に投下された焼夷弾は1万2740発。そのうちの4500発ほどは集束焼夷弾で、1個につき110本の小さな焼夷弾が束ねられた、さらに攻撃力の高いものでした。
目標区域となったのは、富山城址公園の南東の角を中心に半径約1.2㎞のエリア。この地域の99.5%が爆撃によって焼失し、目標区域における1度の空襲では、国内最大の破壊率となります。
死者は2737人となり、約11万人もの被災者を出します。同日に空襲を受けた八王子や水戸では避難の指示が出ていたため、犠牲者は数百人ほどでした。しかし富山ではそのような指示はなく、戦時中の防空法制によって空襲の際に逃げることは禁止されており、その場に留まって消火活動しなければいけないという教えが浸透していたため、それに従って留まる人が多かったことが大きな被害に繋がります。
太平洋戦争の被害:熊谷大空襲(埼玉県)
太平洋戦争中、埼玉県域は約40回の空襲を受け、とくに県南部の工場地帯(川口市など)はたびたび被害にあいました。大里・比企郡の部隊駐留地も狙われましたが、それでも埼玉県域が「第一攻撃目標」とされることは少なく、東京や川崎などのほかの関東圏の都市ほどは被害を出していませんでした。
ところが、1945(昭和20)年8月14日の深夜から翌15日の未明にかけて、熊谷を標的とする空襲が行われました。
午前2時頃までに無数の焼夷弾が熊谷に投下され、市街地面積の約3分の2が罹災。被災戸数3630戸は全戸数の約4割に相当し罹災者は1万5390人、周辺地域と合わせ266人が死亡。
熊谷市民は焦土のなかで夜を明かし、その日の正午に玉音放送(終戦の詔勅)で終戦を迎えました。のちに熊谷市は、埼玉県で唯一の「戦災指定都市」に指定されています。
太平洋戦争の被害:土崎空襲(秋田県)
終戦直前の8月14日深夜、土崎が空襲を受けました。
アメリカ軍の標的は、土崎に置かれた日本石油秋田製油所でした。
明治以降の近代化において、日本ではエネルギー産業が大きく花開きました。日本石油秋田製油所は、当時の内地では10番目の規模でしたが、周辺の油田から産出する原油は最盛期には内地における精製石油の生産量の37%を占めるほどであり、この時点で秋田は間違いなく「石油王国」でした。
1945(昭和20)年8月14日夜、B-29を中心とする合計132機のアメリカ軍機が土崎上空に襲来。日本石油秋田製油所を標的とし、およそ4時間にわたって1万2047発の爆弾を投下しました。また、上酒田町から新城町、七軒町にかけての地域にも被害が及びました。
この空襲により日石秋田製油所は壊滅し、民間人91名、軍人50名を含む250名以上が犠牲になりました。日本がポツダム宣言を受託して全面降伏を受け入れる半日前のことであり、太平洋戦争最後の空襲であったとされています。
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