目次
台湾の日本統治の基礎ができていく
第4代総督の児玉源太郎(こだまげんたろう)の時代に入り、状況は次第に変化を見せてくるようになります。戦火がやむことはありませんでしたが、台湾総督府はこの時期に統治に本腰を入れるようになったのです。
台湾の日本統治の基礎となる、土地調査と戸籍調査
児玉は民政局長に後藤新平(ごとうしんぺい)を起用し、斬新なアイデアをもとに各種改革を実施していきました。後藤は当地の状況を把握するべく、土地調査と戸籍調査を進め、風土の実情に基づいた法規を整えていきます。同時に財源を確保し、衛生事情の改善や交通機関の整備、教育の普及、製糖事業をはじめとする産業開発を手がけることになります。台湾経営の基礎はこの時期に固まったのです。
こういった後藤の功績は注目すべきですが、見方を変えれば、台湾の人々が台湾総督府という体制のもとに組み込まれていったともいえます。特に製糖産業がモノカルチャー的な性格を帯びつつあった中南部では、その傾向が顕著でした。
日本統治下で開発が進む台湾
その後、大日本帝国の農業基地となっていった台湾ですが、恵まれた気候や土壌といった自然条件に加え、灌漑(かんがい)用水路の整備や農業全般の研究、品種改良、農法の改善、実業教育などを計画的に行うことで、想定以上の結果を生み出していきます。
大正期は産業インフラの拡充も進みました。水力発電所の建設や港湾の整備、鉄道網や道路の整備などが進み、昭和時代に入る頃には、台湾は工業の島へと変わっていきます。さらに治水工事や教育機関の拡充、衛生事情の改善なども進み、社会的な安定が実現。この時期は公会堂や図書館といった公共施設も増えていきました。
日本統治時代に進む都市開発
都市としても、新興都市である台中(たいちゅう)や高雄(たかお)、そして、台湾東部の花蓮港(かれんこう)(現・花蓮)などが大きく成長しました。台中は日本統治時代に入ってから開発が進み中部の中枢となり、美しい街並みで知られていました。いずれも綿密な都市計画によって整備が進められ、近代的な街並みを誇ったのです。
日本統治下の台湾の戦時期と終戦
しかし、戦時期には帝国の南進基地となり、戦闘員の確保のため、台湾人のアイデンティティを日本人に変える「皇民化(こうみんか)運動」が展開されます。そして、軍事的な需要も高まり、工業化の勢いが加速していきました。
都市部を中心に大型産業施設が設けられていましたが、これらは戦時中、空襲の被害に遭ってしまいます。そして、台湾人もまた、軍人・軍属として、戦地に駆り出された事実も忘れてはなりません。厚生労働省によると、20万7183人が戦地に赴き、その内の3万306人が命を落としています。また、高砂(たかさご)族(原住民族)の青年で組織され、南方に派遣された高砂義勇隊(ぎゆうたい)もあり、悲劇は免れられませんでした。
終戦を迎え、日本統治から解放される台湾
そして、1945(昭和20)年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、台湾および澎湖地区の領有権と請求権を放棄しました。
当時、台湾には軍民合わせて約50万人の日本人がいたが、台湾の管理者となった中華民国国民党政府は日本人が台湾にとどまることを嫌いました。12月27日から送還事業が始まり、翌年2月21日からは民間人の引き揚げも開始。台湾に暮らした日本人は当人の意思にかかわらず、台湾を去ったのです。
台湾の日本統治時代を率いた19人の総督が行ったこと
1895(明治28)年4月17日、下関(しものせき)条約によって、台湾および澎湖(ぼうこ(ほうこ))諸島は日本に割譲されます。6月17日には台湾総督府(そうとくふ)始政式が開かれ、統治が始まりました。日本統治時代の最高権力者だった台湾総督はそれぞれの時代のなかで、総督たちはどのような統治を行おこなったでしょうか?
初代総督に就いたのは樺山資紀(かばやますけのり)。その後、桂太郎(かつらたろう)、乃木希典(のぎまれすけ)と続きますが、先述の通り、この頃の台湾は極めて不安定な状態で、日本に対する抵抗も激しく、特に中南部においては抗日勢力との戦闘が繰り返されていました。
第4代総督・児玉と民政局長・後藤新平は人を育てて統治を進める
しかし、第4代総督の児玉源太郎(こだまげんたろう)の時代に状況は一変します。民政局長に後藤新平(ごとうしんぺい)を起用し、各種改革を進めたほか、社会インフラの整備を推進していくのです。
後藤は若い人材を積極的に採用し、「責任とチャンスを与えて才能を引き出す」という手法で人を育てました。また、土地・人口調査のほか、旧慣調査を実施し、台湾の実情を把握したうえで、計画的に整備を進めていきました。
一方で、財源の確保も重視し、アヘンをはじめとする専売制の実施や開発に充てる公債の発行、地方税制の開始などを実施します。その結果、台湾統治の開始からわずか10年ほどで財政の自立を実現。台湾統治の基礎はここに完成することになるのです。
第5代総督・佐久間と第6代総督・安東は抗日を鎮圧
続く佐久間左馬太(さくまさまた)は原住民族勢力の鎮圧に力を入れ、「理蕃(りばん)総督」との異名をとりました。そして、安東貞美(あんどうていび(さだよし))の在任時には西来庵(せいらんあん)(タパニー)事件が起きましたが、ここで大規模な抗日事件はいったんの収束を見ます。
第7代総督の明石元二郎(あかしもとじろう)は在任期間こそ短かったものの、さまざまな産業インフラを手がけ、精力的な動きを見せた総督でした。また、台湾各地をくまなく視察し、当地の実情を把握しようと努めます。自身はインフルエンザに感染し、福岡で他界しましたが、遺体は遺言に従って台湾に移送され、台北(たいほく)の三板橋(さんばんきょう)墓地に葬られました。
第8第総督・田から文官総督の時代へ
原敬(はらたかし)内閣が成立したときには田健治郎(でんけんじろう)が総督となりました。日本統治時代初期、田は原とともに台湾統治の基本政策の立案に参画した人物です。在任中も「内地延長主義」を唱え、台湾人を積極的に登用する方針が採られ、台湾人の社会進出のきっかけをつくりました。
これ以降、第16代総督の中川健蔵(なかがわけんぞう)までは文官総督の時代となります。社会は安定期を迎えましたが、産業基盤の整備は継続的に進められていきます。工業化も一気に進み、高雄(たかお)には港を中心とした工場地帯が生まれました。
再び武官総督となり、戦時体制へ組み込まれていく
1936(昭和11)年に小林躋造(こばやしせいぞう)が就任すると、再び武官総督の時代となります。この時期の台湾は帝国の南進基地とされ、軍事的な重要性が高まっていました。
戦時体制下、台湾の人々のアイデンティティを日本人化する「皇民化(こうみんか)運動」も推進されました。続く長谷川清(はせがわきよし)の時代も、姓を日本式に改める「改姓名(かいせいめい)」や原住民族青年で組織された高砂義勇隊(たかさごぎゆうたい)や、特別志願兵などの制度が実施され、社会全体が戦時体制に組み込まれていったのです。
1945(昭和20)年8月15日、ポツダム宣言受諾によって戦争は終わり、日本は台湾における領有権と請求権を放棄しました。1945(昭和20)年10月25日、台北公会堂で第19代総督の安藤利吉(あんどうりきち)は中華民国が派遣した陳儀(ちんぎ)行政長官との間で降伏文書を交わしました。
そして、1946(昭和21)年5月31日、勅令第287号にて、台湾総督府は正式に廃止となったのです。
日本統治下の台湾の最大行事 1923年の皇太子台湾行啓
1923(大正12)年4月、皇太子裕仁(ひろひと)親王(のちの昭和天皇)は摂政(せっしょう)の立場で12日間、台湾に滞在しました。これは新領土・台湾にとって最も大きな行事とされ、綿密な準備が進められました。視察先は62か所、祝賀行事は232にもおよびました。
皇太子一行は4月12日に横須賀(よこすか)を出発。16日には基隆(きいるん)に入港を果たしました。これを第8代台湾総督・田健治郎(でんけんじろう)が迎え、一行は特別列車で台北(たいほく)に向かいました。台北駅では海軍軍楽隊が君が代を演奏。沿道は奉迎の団体や一般市民で埋め尽くされ、この日だけで10万人もの民衆が出迎えました。この頃の台北市は人口17万人程度なので、この数字がいかに大きいかが理解できます。
台湾行啓の工程~台北から台中へ
台北に到着後、最初に訪れたのは官幣大社・台湾神社でした。台北での宿泊所となったのは台湾総督官邸。注目したいのは、庭園に亜熱帯性の植物を選んで植樹していたことです。これはマラリアをはじめとする疫病が蔓延(まんえん)していた時代、地方都市に赴かなくても、台湾らしい南国風情を楽しめるようにという配慮でした。
一行は2日間の台北視察のあと、台中へと向かい、その途中、新竹(しんちく)に寄っています。この駅舎は基隆、台中と並び、当時の三大名駅舎に挙げられていました。
その後、車中にて台湾第2の高峰であるシルビヤ山(現・雪山(シュエサン))の説明を受けます。そして、明治天皇が命名者となった新高山(にいたかやま)(現・玉山(ユィサン))に続き、この山を「次高山(つぎたかやま)」と命名しました。
その後は台中に一泊し、台南を目指しました。台南の宿泊所は台南州知事官邸。現在、皇太子の宿泊所が残っているのは台北と台南だけです。館内は見学可能で、古写真やパネルの展示があります。また、台南市の成功大学キャンパスには、皇太子お手植えのガジュマルが残っています。
台湾行啓の工程~台南、孝雄から澎湖へ
4月21日は高雄(たかお)市内を視察。翌22日は屏東(へいとう)を往復し、台湾製糖株式会社を視察しています。この日は打狗(たかお)(高雄)山と呼ばれていた丘(エープヒル)にも登頂し、高雄の家並みと港を眺めています。後日、この視察を記念して、打狗山は「寿山(ことぶきやま)」と改名されました。
そして、23日は高雄港から澎(ぼうこ(ほうこ))湖島の馬公(まこう)へ渡り、海軍の要港部を視察後、船中泊で基隆港へ向かい、台北に戻りました。
当時の交通事情を考えると、行程はかなり詰まった印象です。しかし、順調に最終日となる4月27日を迎えました。そして、午前7時10分、皇太子を乗せた特別列車は台北駅を離れ、基隆へと向かったのでした。
現在、台湾では民主化の進行にともない、冷静でかつ、客観的な評価のもと、日本統治時代の半世紀を捉える動きが定着しています。皇太子の台湾行啓もまた、台湾史の一部として認識されているのです。
台湾行啓で仕立てられた貴賓車
台湾行啓では皇太子専用の7両編成の特別列車が仕立てられました。列車を牽引したのはE500型蒸気機関車で、日本の8620形です。
貴賓車は2両あり、皇太子行啓に合わせて新造されたホトク1形、そして、台湾総督専用のコトク1形でした。車体は紫色に塗られ、側面に菊の紋章がはめ込まれました。台湾南部の暑さを考慮し、扇風機も備えられています。
ホトク1形は車体長16.4mの木造客車で、配膳室と従者の控室があり、トイレは洗面台が壁に埋め込まれていました。車内には明治の巨匠・川端玉章(かわばたぎょくしょう)の蒔絵(まきえ)が掲げられていました。現在、貴賓車は台北郊外の七堵(しちと)操車場に保存されています。一般公開されるのはイベント時に限られますが、歴史遺産として扱われています。
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台湾在住作家。武蔵野大学客員教授。台湾を学ぶ会代表。1969年生まれ。
早稲田大学教育学部教育学科卒業後、出版社勤務を経て台湾と関わる。台湾に残る日本統治時代の遺構や建造物を記録するほか、古写真や史料の収集、古老や引揚者の聞き取り調査を進める。 著書に『台北・歴史建築探訪』、『台湾旅人地図帳』、『台湾に生きている日本』、『古写真が語る台湾 日本統治時代の50年』など。
台湾事情や歴史秘話、日台の結びつきなどをテーマに講演をこなすほか、ツアーの企画なども行なっている。
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