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線路の正体は? かつて赤羽の丘陵地に点在していた軍用施設との関係
この線路の正体は「陸軍兵器補給廠」の専用線でした。つまり、戦前の日本陸軍が、工廠から兵器を輸送するための貨物線だったのです。
残念ながら、いつ頃建設されたのか、廃止されたのか、詳しい経緯を示す資料は、見つかりませんでした。幾つかの情報を総合すると、明治時代に建設され、戦後まもなく使われなくなったようです。古地図で、その歴史を振り返ってみましょう。

1917(大正6)年製版 1/20000地形図「王子」 「今昔マップ」より
こちらは大正時代の地図です。場所は、先ほどの「大蔵省関東財務局管理地」がある辺り。既に鉄道線は開通しています。終点が「兵器庫」なので、兵器輸送のための鉄道だったことがよくわかります。この兵器庫は「東京鎮台武器庫」として、1886年、この地に設置されました。周辺には集落は殆ど見られません。

1919(大正8)年発行 1/25000地形図「赤羽」 「今昔マップ」より
別の大正時代の地図では、この専用貨物線の周辺には「工兵営」「近衛工兵営」「被服庫」(=軍服などの倉庫)という文字もあります。軍用施設が点在していたことがわかります。「火薬庫」という物騒な施設も見つかりました。これでは近くに家など建てられませんね。

【左】1932(昭和7)年発行 1/25000地形図「赤羽」 【右】空中写真 1936年頃 「今昔マップon the web」より
こちらは昭和初期の地図です。「兵器庫」は「兵器支廠」と名称が変わっています。周辺の住宅や建物の数も、大分増えているようです。当時の空中写真を見ると、長方形の工廠敷地に、長方形の建物が整然と並んでいる様子がよく分ります。この兵器庫は、その後、東京陸軍兵器補給廠と名前を変えています。
このように、赤羽西側の丘陵部には、明治時代以降、数多くの軍事施設が建設されました。これらに関係する軍需産業によって、赤羽は「軍都」として発展していきます。それが第二次世界大戦まで続きました。
赤羽の軍事施設のその後 戦車練習場?
上記の軍事施設は、第二次世界大戦終戦により、全て占領軍に接収されました。
ある施設は、そのまま米軍の施設となり、その後1971年までに全て返還されます。またある施設は、解体され住宅団地や学校、公共施設へ生まれ変わりました。
先ほどの「兵器支廠」は、しばらく米軍兵器補給廠として使用されていました。冒頭の地図で「大蔵省関東財務局管理地」となっていた場所です。このような名称の理由は、返還後の用途が決まらず、国が管理している状態だったから、ということでしょう。
冒頭の地図で「米軍東京兵器廠」とあった施設も、かつての「兵器支廠」の一部が、米軍用地となったものです。その後返還され「陸上自衛隊十条駐屯地」の一部となりました。

1979年 空中写真 出典:国土地理院
こちらは、上記の地図とほぼ同じ範囲の、1979年の空中写真です。陸上自衛隊の施設になっています。
ここはかつて、米軍の戦車練習場だった、という情報もありましたが、それを裏付ける確かな歴史資料は見当たりませんでした。
ただ、写真を見る限り、建物群の横には、軍用車両が整列している のがわかります。南側は兵舎や車庫でしょうか。北側には、確かに練習場のようなコースも見えます。
更に拡大してみましょう。練習コース?の中にも、何かが多数並んでいます。防御陣地のような構造物も、見つかりました。ここでは、どのような事が行われていたのでしょうか・・・。この軍用施設は、現在は無くなっています。
それにしても、ここが戦車の練習場だった、というお話が真実なら、興味深いですね。このような都会で、戦車が動き回っていた、というのですから。
現在の赤羽 軍都からのん兵衛の街へ
さて、こちらは現在の赤羽駅周辺です。貨物線跡は「赤羽緑道公園」として整備されています。ちょうど「八幡小(学校)」の横にある歩道橋が、鉄道線のルートに重なります。カーブした細長い緑地があるのが、お分かりでしょうか。かつての軍用施設はというと、「被服庫」は大団地になりました。「工兵営」は星美学園という学校に、「近衛工兵営」は東京北医療センターに変わっています。
続いて「米軍東京兵器廠」があったエリアです。前述の空中写真で、軍用車両が整列していた場所は、「自然」と「スポーツ」を楽しむ場所になっていました。「赤羽自然観察公園」「赤羽スポーツの森公園」とあります。
もう一枚見ていきましょう。こちらは「兵器支廠」がおかれたエリアです。学校、団地、スポーツ施設など、様々なものに生まれ変わっています。中でも「国立スポーツ科学センター」(2001年開所)は、オリンピックアスリートの競技力向上をサポートする研究機関として、知られるようになりました。
「ちょっと昔」地図の一本の線路から、時間旅行に出かけてみませんか
さて、今回は1968年の古地図にあった鉄道線から、赤羽周辺の歴史を紐解いてみました。
一本の線をたどると、その先には、様々な歴史がひろがっていました。実は北区には、今回ご紹介した他にも沢山の軍事遺構がありますが、その話は、別の機会にしましょう。
みなさんも「ちょっと昔」地図にある一本の線路から、時間旅行に出かけてみては如何でしょうか。
【参考にした主な資料:東京都北区HP、「戦後60年 写真で語り継ぐ平和の願い」「北区平和マップ」(東京都北区刊行)】
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昭文社が刊行してきた都市地図には、道路や鉄道、河川など街の骨格となる情報はもちろん、町丁名や地番、学校・役場などの公共的施設から、住宅団地やアパート、スーパー・デパート、工場や倉庫などの民間施設まで豊富に掲載してきました。収録内容も時代とともに変化するなど、地図はその時々の景観や暮らしが垣間見える「街の記憶」でもあります。
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<商品の概要>
◆収録されている都市地図の刊行年 「1968年」「1985年」「2001年」「2014年」
※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

【筆者】オフィス プラネイロ
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現住所は地図雑学系ライター、本籍は地図実踏調査員。昭文社地図の現地調査歴15年以上の、自称「地理のプロフェッショナル」チームです。これまで調査・取材で訪問した市区町村は、およそ500以上。昭文社刊『ツーリングマップル』『全国鉄道地図帳』等の編集に参加しています。休日は、国内外の廃線、廃鉱など「廃」なものを訪ねる「廃活」、離島をめぐる「島活」中。好きな廃鉱は旧羽幌炭鉱、好きな島はサンブラス諸島(カリブ海)と大久野島。特技は「店で売ってる野菜の産地名⇒県名を当てること」。